2014年7月24日木曜日

1962.8.16(木)~24(金) 大石ゼミ合宿・・妙高高原池の平寮

0時12分高崎発準急で発つ。
田口駅で田井野に声をかけられる。
高崎駅で牧野を見かけたという。
次の各駅で来たが、話によると高崎駅の待合室ではすぐ横に居たらしい。
よくもまあ、お互いに気が付かなかったものだ。

2日目だったか3日目だったが忘れたが、開湯40周年記念花火大会があり、思わぬ拾い物をした。寮の前に縁台を出して見物したが、まるで我々のために打ち上げてくれているようなものだった。

宿帳を皆で見ていたら・・・(略)

ゼミはかなり順調で13章まで終ってしまった。(もっとも最後の2章はとうとう判らなくなってしまったが)
先生もかなり我々を認めてくれたと思う。

池でボートに乗ったら2~3日で真っ黒に日焼けし、顔や腕の皮が剥けてしまった。

寮の食事では足りないので、毎日のようにカヤバ荘に食べに行った。いつもヤキソバばかり食べていたので、すっかり覚えられてしまい、最後の日には新たに注文して用意してくれていたのには恐縮した。本当に皆良い人たちばかりで気持ちが良かった。

22日の夜、妙高に登るつもりだったが、雨が降ってきたのでやめ、皆と一緒に帰ることにした。(越智と片山は、勇敢にも出かけていった。)

車中、寮歌集の新解釈などして遊び、高崎で皆と別れた。全く、思いで深い旅だった。

(注: 往復ともに高崎が登場するのは、牧野と私が、帰省先の高碕、桐生から参加したからだ。合宿は4年生と合同だったはずだが、日記には一行も記述がない。水上、間藤の両秀才が参加していた筈だが、お二人とも我々には恐れ多くて、遊び仲間ではなかった所為だろう。認めてくれた云々は、先生の褒め上手のなせる業であり、我々の出来が良かったわけではない。池というのは、「いもり池」のことである。翌年の夏もここで3年生と一緒に合宿したが、HPの集合写真は其の時のものである。)

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2 件のコメント:

2018年1月20日 11:16 に投稿, Blogger 関口益照 さんは書きました...

妙高高原での思い出は生涯忘れられないものとなった。卒業後も徹夜が連続する変則勤務の合間を縫ってよく一人旅に出かけたものだ。
上野発の最終列車に飛び乗って翌朝田口駅で下車し、駅前の洒落たレストランでモーニングを摂ってから始発バスで池の平温泉まで行き、そこから歩くと言うのが定番だった。特に何をするでもなく、人気の無いイモリ池が雪解け水であふれ出しているのを見たり、寮の裏手から妙高山の裾野を数百メートル登ったところに有ったスキーリフトの跡に腰を下ろして遥か下方に見える野尻湖を眺めたりして物思いに耽ったものだ。
帰りは田口駅まで歩き、そこから野尻湖行きのバスに乗った。
野尻湖に着くのは大半の観光客が引き揚げた後で湖面には数えるほどのボートが浮いているだけだった。貸ボートの返却時限まで一時間くらいしかないので、大急ぎで弁天島へ渡って宇賀神社を参拝した。弁天島をぐるりと一回りして帰り着いたのは、私が最後だったらしい。
そろそろ日が傾きかける頃だったので、弁天島の裏手は薄暗く、風も吹き出してボートが揺れ、薄気味悪い気配だった。左回りで島の横にまで来てホッとしたのも束の間、ボートがいくら漕いでも桟橋へ向かわずに左岸方向へ近づいて行く。岸まで40~50メートル位まで近づいた時、突然、危険!と言う文字が目に入った。標識板には、”取水口に近づかないでください。北陸電力”と書いて有ったような記憶がある。
それからは、桟橋を目指してそれこそ必死の思いで漕ぎに漕いだ。桟橋に貸ボート屋の小父さんの姿が見えていたことが唯一の救いだった。

 
2018年1月26日 18:54 に投稿, Blogger 関口益照 さんは書きました...

野尻湖発長野行きの最終バスで長野に着いた時は21時ごろだった。そのまま上りの各駅停車に乗ったら横川あたりまでしか行かないらしいので、軽井沢で下車して特急雷鳥(?)を待つことにした。時刻は午前1時ごろだったと思う。駅には誰も居らず駅員の姿も無かった。凄い霧が駅の待合室まで流れ込み、じっとしていてもびしょぬれになるくらいだったので、駅前の大通り(と言ってもただ平屋の民家が並んでいるだけだったが)を突き当たりのあたりまで往復し有名な別荘地の雰囲気を見ておきたいと思ったが何の変哲も無い田舎町の裏寂れた街並みで当てが外れた。世に言う高級別荘は歩いていけるようなところには無いと言うことだろう。
そうこうするうちに到着した特急は、通路やデッキにまで人が一杯でとても割り込む余地が無いほどだったが、当時の通勤列車の肋骨が折れそうな込み具合からすれば大したことは無いと思ってデッキに立ったまま上野駅まで夜風に吹かれていた。明け方漸く上野に到着し、構内の食堂でモーニングにありついたときの達成感は、後年、社用で全国を飛び回るようになってからの贅沢旅行の比ではなかった。
その足で丸の内の会社に出勤し、徹夜明けで帰宅する同僚と何時ものように引継ぎの打ち合わせをするという、今考えると嘘のような毎日だった。
http://oureternalmoment.web.fc2.com/souvenir/10epsd/newpage07.htm#marunouchi

 

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